因果の法則を頼りにすることは、大きな灯台を頼りにするようなものです。
また、ほかの人々に因果の法則を信じてもらうことは、非常に大きな善行です。 多くの人々が因果の法則を信じるようになれば、報いが訪れたときにも、過度に苦しむことはなくなるでしょう。なぜなら、自分が過去に作った業(カルマ)の負債を返しているのだと理解できるからです。また、大きな善い結果が訪れたときにも、有頂天になったり、その結果を享受することばかりに執着したりすることはなくなるでしょう。むしろ、その恵まれた状況を生かして、人生や社会に多くの善いことをもたらそうとするはずです。

知らず知らずのうちに行った善悪の報い
私たちは、自分が何かをしているとき、それが正しいことなのか、間違っていることなのかに気づかないことがあります。そして、その報いが訪れたとき、つまり幸せになったり、苦しんだりしたときにも、なぜそのような結果になったのかが分かりません。この人生には、そのような事例が数多くあります。
例えば、子どもの自由を尊重することを推奨していた親たちがいました。彼らは、それが思いやりのある、文明的な考え方だと思っていました。しかし、その考え方がかえって子どもたちを甘やかし、悪い影響を与えてしまうことには気づきませんでした。子どもたちは厳格な教育を受けずに育ち、自己中心的な気持ちが強くなっていきました。そのため、親たちは年を取ってから不幸を感じるようになりました。自分たちはきちんと生きてきたと思っていたのに、なぜ老後に苦しまなければならないのか、理解できなかったのです。子どもの教育について誤った考え方をしていたために、悪い報いを受けることになりました。これは、私たちがなかなか気づくことのできない一種の罪なのです。
あるとき、一人の商人が私たちの寺院を訪れ、次のように尋ねました。
「尊敬する師よ、多くの人が私の店で商品を購入します。そして、自分たちが差額を得られるように、請求書に実際よりも高い金額を書いてほしいと頼んできます。もし私がその要求に応じなければ、彼らはほかの店に行ってしまいます。ですから、私は応じざるを得ません。師よ、これは罪になるのでしょうか。」
実際のところ、それが罪になるかどうかを判断するのは簡単ではありません。もし買い手が、給料が十分に支払われていない従業員であれば、それは罪ではないかもしれません。しかし、買い手が過度な欲に駆られているのであれば、私たちの行為はその人の悪い行いを助長することになります。そのため、これは罪に当たります。したがって、同じ行為であっても、状況によって罪になる場合もあれば、罪にならない場合もあるのです。
このように、数え切れないほどの生涯を通じて、私たちは自分でも気づかないうちに多くの善い行いをして福徳を積み、また、多くの罪を犯してきたのかもしれません。そして、この人生において、それらの結果を受け取らなければなりません。
しかし、幸いなことに、私たちは今、仏教について知ることができました。ですから、私たちは因果の法則を固く信じるべきです。自分に起こるすべての出来事を、因果の法則に基づいて考える必要があります。また、因果の法則に従って自分の生き方を正し、善い行いに努め、悪い行いを避けるべきです。そして、ほかの人々も因果の法則を信じ、自分と同じように生き方を正していけるよう、力を尽くして助けるべきなのです。
先ほど述べたように、因果の法則を頼りにすることは、大きな灯台を頼りにするようなものです。また、ほかの人々に因果の法則を信じてもらうことは、非常に大きな善行です。
多くの人々が因果の法則を信じるようになれば、報いが訪れたときにも、過度に苦しむことはなくなるでしょう。なぜなら、自分が過去に作った業(カルマ)の負債を返しているのだと理解できるからです。また、大きな善い結果が訪れたときにも、有頂天になったり、その結果を享受することばかりに執着したりすることはなくなるでしょう。むしろ、その恵まれた状況を生かして、人生や社会に多くの善いことをもたらそうとするはずです。
因果の法則を信じるようになると、人々は徐々に、正しいことと間違っていることを見分ける智慧を身につけていきます。そして、善い行いに励み、罪を犯すことを少なくしていくでしょう。
その結果、人々はより賢明になり、道徳心を高め、他者への思いやりを深めていきます。そして、凡夫としての自分を超え、悟りへと向かって進歩していくのです。
著者:
Janna
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