覚えておいてください。私たちが新たな功徳を積まなければ、その分、
罪を犯すことが増えていきます。そのため、宗教的な修行を始めたばかりの頃は、自分の智慧の程度に応じて、十年、二十年、あるいは三十年ほど、善悪について真剣に考える必要があります。 中には、五年間ほど善悪について意識して生活するだけで、心に安心と安らぎが生まれる人もいます。なぜなら、その人は自分の行動や思考の一つひとつについて、それが善いものであるかどうかを考えるようになり、小さなことに至るまで善い心を保てるようになるからです。その結果、心は幸福で満たされます。

善悪を見分ける智慧によって人を判断する
私たちは、「これは正しく、あれは間違っている」とよく耳にします。また、善い行いをし、悪い行いを避けようと努めることもあります。私たちは善悪について一般的な理解は持っているかもしれませんが、その本質を深く理解しているとは限りません。そこで今日は、一人ひとりが善とは何か、悪とは何かを明確に理解できるように、善悪について考えてみましょう。
これは、私たちが凡人から聖人へと変わっていくことを意味します。なぜなら、聖人とは善悪を完全に理解している人だからです。この記事は、善悪について考えるための一つの手がかりにすぎず、善悪に関するすべてを取り上げるものではありません。何が善で何が悪なのかをより深く見極めるためには、長い時間をかけて修行する必要があります。そして、善悪は自分が考えているほど単純なものではないと気づくでしょう。
やがて私たちは、誰かの修行の進歩を評価する際に、修行に費やした時間や外見ではなく、その人が善悪を見分ける能力に基づいて判断できるようになります。例えば、ごく普通の人に出会ったとしても、話をするうちに、その人が私たちには気づけなかった過ちを見抜くことができると分かったなら、その人には智慧があると理解すべきです。
例えば、あるパーティーで、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの四人が話をしていたとします。Aさんは、その場にいない人の悪口を言いました。BさんとCさんは、特に何も意見を述べませんでした。しかし、Dさんは静かにこう言いました。
「私たちが誰かを悪い人だと思ったり、その人が過ちを犯したと考えたりするのは、もしかすると、私たちがその人を理解していないからかもしれません。」
私たちは往々にして、自分の主観だけで人を判断し、その人自身の言い分に耳を傾けようとしません。そのため、他人を非難することが必ずしも正しいとは限りません。Dさんの言葉は、私たちに大切なことを気づかせてくれました。そして、Dさんには智慧と道徳心があると分かります。
誰かの精神的な修行の進歩を評価するときには、その人が善悪をどれほど明確に区別できるかを基準にすべきです。もし、その人が正しいことと間違っていることについてほとんど考えないのであれば、その人には道徳心が欠けており、人間として生きるにふさわしくない状態にあると考えるべきです。そして、来世では動物に生まれ変わることになるでしょう。このような点を手がかりとして、誰が聖人であり、誰が人間であり、誰が動物の境涯に向かうのかを見極めることができます。重要なのは、その人が善悪に関心を持っているかどうか、そして、どの程度まで関心を持っているかということです。
多くの人は、正しいことと間違っていることにあまり関心を持ちません。自分が心地よいと感じるように生き、好きなことに自由にお金を使います。自分がどれほどの功徳を積んだのか、どれほどの罪を犯したのかについても気にかけません。このような人々は倫理観に欠けているため、私たちは彼らと接するときに注意する必要があります。もし彼らに教えを伝える機会があれば、そうするべきです。しかし、そのような機会がなければ、彼らの影響を受けないように距離を置くべきです。正しいことと間違っていることを気にかけない人には道徳心が欠けており、その結果として動物に生まれ変わることになる可能性は非常に明らかです。
あなたは、こう尋ねるかもしれません。
「もし私たちが、何が罪で何が功徳なのか、何が善で何が悪なのかをいつも気にしていたら、疲れてストレスがたまってしまうのではありませんか。」
確かに、そのとおりです。私たちは二十年、あるいは三十年にわたってこのように努めなければならないかもしれません。しかし、その後には、それが自然なこととして身につくようになります。そうでなければ、最初のうちは自分の好きなように生きられるため、気楽で心地よく感じるかもしれませんが、最終的には苦しむことになるでしょう。それだけではありません。功徳を積むことなく、さらに多くの罪を犯してしまうため、来世ではもっと大きな苦しみを味わうことになるでしょう。
覚えておいてください。私たちが新たな功徳を積まなければ、その分、罪を犯すことが増えていきます。そのため、宗教的な修行を始めたばかりの頃は、自分の智慧の程度に応じて、十年、二十年、あるいは三十年ほど、善悪について真剣に考える必要があります。
中には、五年間ほど善悪について意識して生活するだけで、心に安心と安らぎが生まれる人もいます。なぜなら、その人は自分の行動や思考の一つひとつについて、それが善いものであるかどうかを考えるようになり、小さなことに至るまで善い心を保てるようになるからです。その結果、心は幸福で満たされます。
一方、理解力がそれほど高くない人は、善悪について十年、二十年、あるいは三十年ほど考え続ける必要があるかもしれません。そうすることで、やがてその人の心は善い考えで満たされるようになります。
これは、努力を必要とする最初の段階です。しかし、そこで得られる利益は永遠に続きます。二十年、三十年と正しいことと間違っていることを真剣に考え続けた人は、幸福と平和、そして心の安らぎを得ることができます。そして、その人の信念は、何ものによっても揺るがされなくなります。
一方、物事を表面的にしか捉えず、正しいことと間違っていることに関心を持たず、他人の気持ちも気にかけない人は、今は幸せで気楽に暮らしているように見えるかもしれません。しかし、二十年、三十年が経過すると、苦しみを経験することになるでしょう。その頃には、その人の心は、乗り越えることのできない悲しみで満たされてしまいます。そして、憂うつな気持ちから抜け出そうともがけばもがくほど、ますます苦しむことになるのです。
著者:
Janna
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