仏教Q&A 21~25では、仏教徒でない人も涅槃に到達できるのか、
正しい修行とは何か、四聖諦、苦しみとその原因について解説します。

初心者のための仏教 | Q&A:質問21~25
質問21:仏教徒でない人が修行し、涅槃(ねはん)を証悟することは可能でしょうか?
回答:普通の人々は信仰、肌の色、民族、国境、財産などを理由に勝手に分け隔てようとしがちです。しかし、高尚な聖者方はそのようなことに囚われることはありません。
聖者方が区別するのは、道徳を持つ人と道徳を欠いた人の二種類だけです。私たちが道徳を持っているならば、どの宗教を信仰していようとも、高尚な聖者方に愛されるでしょう。
聖者方は、仏教徒がイエス・キリストを敬う姿を喜び、キリスト教徒が仏様を敬う姿もまた喜ばれることでしょう。真理とは、すべての境界を超越し、名や形式に妨げられることはありません。
たとえ仏教徒であっても、修行を誤れば結果を得ることはできません。一方で、仏教徒でない人であっても、正しい修行を行えば悟りに至ることが可能です。
質問22:正しい修行方法とは何でしょうか?間違った修行方法とは何でしょうか?
回答:修行の道は、広大で壮大、緻密かつ具体的で、厳格な倫理体系を伴うものです。修行は、まずすべてを正しく認識することから始まり、浅いところから深いところへ、少ないことから多くのことへ、近いところから遠いところへ、小さいことから大きいことへと進んでいきます。その道のりは苦労を伴い、修行者にはこの道を幾多の生涯にわたって進む覚悟が求められます。
道理や修行の道を十分に理解しないまま急いで修行を始めると、必ず誤った修行となります。まずは道理や修行の道を正確に理解する方法を見つけることが不可欠です。正しい理解を得るためには、明師(*)(優れた師)や真の師に出会い、純正な教義資料を探し求めるための祈りが必要です。私たちはまだ智慧を持っていないため、自分自身では誰が真の師であり、どの教えが正しいかを判断することはできません。そのため、主観的な判断を避け、謙虚に祈り求めることが求められます。多くの師の説く教えは一見魅力的に聞こえるかもしれませんが、慎重に見極める姿勢が大切です。
(*)明師とは、仏教において非常に高い修行段階に達し、仏法(仏様の教え)に深い理解と智慧を持ち、他者を悟りへの道へと導くことができる修行者のことを指します。
質問23:最も正確な道理の初歩的理解とは何でしょうか?
回答:道理の初歩的な理解には、深く詳細な認識が必要であり、それが「四聖諦(ししょうたい)」です。これは仏教の宣言であり、非常に崇高かつ偉大であると同時に、理解するのが難しいものです。たとえ難解であっても、私たちはこれを理解する努力をしなければなりません。なぜなら、四聖諦(ししょうたい)を理解することが、多くの生涯をかけた修行の第一歩となるからです。
「四聖諦(ししょうたい)」には以下の4つの主要な真理が含まれています:
• 苦諦(くたい):衆生と人生の本質である苦しみに関する真理。
• 集諦(じったい):苦しみの原因に関する真理。何が衆生の生活を覆う苦しみを引き起こしているのかを示します。
• 滅諦(めったい):涅槃(ねはん)に関する真理。涅槃(ねはん)とは苦しみが完全に消えた場所であり、卓越した悟りと解脱の状態であり、仏教の修行の理想的な目標です。
道諦(どうたい):涅槃(ねはん)に至る道に関する真理。「八正道(はっしょうどう)」を含んでいます。
お釈迦さまはウルヴェーラの森で蓮華座にて不動の姿勢で49日間の瞑想を行い、成道されました。その後、ベナレス近郊の鹿野苑に隠居していたコンダンニャ五兄弟のもとを訪れ、彼らを教化するために初めての法を説きました。それが「四聖諦(ししょうたい)」であり、仏教におけるすべての教えの出発点であり、宇宙の真理でもあります。お釈迦さまの悟りの智慧によって明らかにされたこの真理は、当然ながら容易に理解できるものではありません。しかし、正しい修行を行いたいと願うならば、この四聖諦(ししょうたい)を深く理解することが必須です。
質問24:苦諦(くたい)とは何でしょうか?
回答:苦諦(くたい)とは、苦しみに関する真理を指します。この宇宙には、物理学、化学、数学、生物学、その他多くの分野における法則や原理、原則が存在します。しかし、それらがもし有情衆生、つまり意識を持つ存在に関わる場合、すべての生きとし生けるものは、厳しい現実に直面しなければなりません。その現実とは、「すべての衆生は何らかの形で苦しみを受ける」という厳粛な真理です。
私たちは普段、自分が苦しんでいることをあまり意識していないかもしれません。たとえば、餌を求めて這うアリや泳ぐ魚が苦しみを感じていないように見えるのと同じです。地下に潜むミミズが苦しみを感じないように、私たちも苦しみに慣れ、それを受け入れながら日々を生きています。しかし、私たちより高い次元の存在、すなわち菩薩たちは、私たちが非常に苦しんでいることを理解し、私たちを哀れむのです。私たちが昆虫や動物たちを見て、その生存のための奮闘を気の毒に思うのと同じです。
さらに、完全に解脱した阿羅漢(あらかん)の聖者たちは、すべての衆生が懸命に生き抜き、やがて死を迎えるという、虚無的な現実をはっきりと認識しています。もし誰かが善心を持ち、人々のために生きる道を知っているならば、その人生は多少の意味を持つものになるでしょう。しかし、利己的に自分のためだけに生きる人は、さらに多くの苦しみを味わうことになります。
仏様が示した八つの苦しみは下記の通りです。
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生苦(しょうく)
生まれること自体が苦しみであり、この人生の困難な旅の始まりです。 -
老苦(ろうく)
老いることは避けられず、身体や精神の衰えは大きな苦痛を伴います。 -
病苦(びょうく)
病気による肉体的、精神的な不調は誰にとっても大きな苦しみです。 -
死苦(しく)
死は生命の終わりであり、痛み、喪失、離別の悲しみをもたらします。 -
愛別離苦(あいべつりく)
愛する人やものと別れなければならないこと。世界に永遠の結びつきはあり得ません。 -
怨憎会苦(おんぞうえく)
嫌いな人やものと出会い、避けられないこと。 -
求不得苦(ぐふとくく)
欲しいものを手に入れられないこと。 -
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
精神と身体の構成要素である五蘊に執着し、混乱や苦しみを引き起こすこと。
時々、私たちは小さな成功や幸運を得て幸福を感じます。しかし、それらの幸福は一時的なものであり、善行の結果として得られる果報に過ぎません。福徳が尽きると、再び苦しみが訪れます。私たちは常に善行を積むことで苦しみを回避しようと努めますが、それだけでは苦しみの根源を完全に取り除くことはできません。仏様の教えに基づき解脱を修行することで初めて、苦しみの根本原因を消滅させることができます。
私たちの脳の構造は悲しみを感じるように設計されていますが、福徳のおかげで、脳細胞は「ドーパミン」という化学物質を分泌し、悲しみを和らげます。もしドーパミンの分泌が停止すれば、私たちはすぐに出口のない悲しみ、つまりうつ病に陥るでしょう。
同様に、私たちの身体は痛みを感じるように構成されています。関節や筋肉が引っ張られたり衝突したりすることで痛みが生じますが、福徳のおかげで身体の細胞は「エンドルフィン」という鎮痛物質を分泌し、痛みを和らげます。もしエンドルフィンの分泌がなくなれば、全身が痛みに満たされるでしょう。
すべての衆生の苦しみは終わることがありません。それが人生の本質なのです。
質問25:集諦(じったい)とは何でしょうか?
回答:集諦(じったい)とは、苦しみの原因を指します。なぜ私たちはこの世に生まれ、数多の苦しみ、困難、別離、悲しみ、絶望を経験しなければならないのでしょうか。そして、喜びはただ短い瞬間でしかないのでしょうか。
苦しみの根本原因は、私たちが「無明(むみょう)」、「我執(がしゅう)」、「貪欲(どんよく)」、「怒り」、「欺瞞(ぎまん)」、「野心」、「愚痴(ぐち)」、「誤解」、「慢心(まんしん)」、「利己心」を持っているからにほかなりません。
これらの誤りによって、私たちは苦しみを招いているのです。
最も根本的な誤りは「無明(むみょう)」です。無明(むみょう)は「我執(がしゅう)」や「貪欲(どんよく)」を引き起こし、私たちを無限の輪廻(りんね)の中へと押し込みます。
では、「無明(むみょう)」とは何でしょうか。それは答えのない問いでもあります。なぜなら無明(むみょう)とは、凡夫(ぼんぷ)(普通の人々)の目には見えない非常に深い暗黒の無知の状態だからです。無明(むみょう)の正体を明らかにすることができるのは、阿羅漢(あらかん)果を得た聖者のみです。
苦しみは二つの要因から生じます。
一つは心の感情、もう一つは業(ごう)による圧迫です。
業(ごう)は私たちを困難な状況に陥らせ、その中で私たちの心が苦しむのです。たとえば、業(ごう)によって交通事故に遭い、損失や不都合が生じ、その出来事により心が苦しむことがあります。一方で、心が平穏で自らを超越している人も、同じように事故に遭い身体的に傷つくことがあっても、心は苦しみを感じない場合もあります。苦しみの本質は心にありますが、その心に影響を与える要因は外部環境に由来します。
心に無明(むみょう)、我執(がしゅう)、貪欲(どんよく)がある限り、私たちは困難な状況で苦しみの感情を制御することができません。
また、心に無明(むみょう)、我執(がしゅう)、貪欲(どんよく)、怒りがある限り、悪業を作り続け、それによる報いによって再び苦難へと追いやられます。
無明(むみょう)、我執(がしゅう)、貪欲(どんよく)が続く限り、輪廻(りんね)の再生が止まることはなく、私たちは永遠の輪廻(りんね)の苦しみを受け続けます。
無明(むみょう)はすべてを覆い隠しますが、不善なる本能が引き起こす誤りもまた、私たちを無数の業障の海に沈め、そこから抜け出すことを困難にします。
衆生は互いに殺し合い、奪い合い、束縛し合い、非難し合い、欺き合い、裏切り合います。また、聖者を軽んじ、無頼者を崇拝し、食物や清潔な水を浪費し、困窮者を放置し、弱者を軽蔑し、自己を誇示し、他者に対して無責任であるといった行為もまた、数え切れないほどの悪業(あくごう)を生じさせます。これらの悪業(あくごう)によって、衆生はその結果と向き合い、完全な報いを受けざるを得なくなります。
さらに、悪業(あくごう)が衆生を昆虫や下等生物に堕落させ、人間に再び生まれることを不可能にする場合もあります。その結果、解脱や悟りの道はほとんど望みがなくなります。
しかし、善い教えを学ぶことで、衆生が善行を積み、人々を助け合うことを知る場合もあります。この福徳により、人生においてより多くの選択肢が生まれ、安らぎを感じることができます。しかし、無明(むみょう)が消え去っていない限り、悪業は常に機会をうかがっており、わずかな油断で再び悪業(あくごう)を作り出し、再び苦しみの束縛を受けることになるのです。
無明(むみょう)や不善なる本能(煩悩(ぼんのう))は常に潜在し、善心は非常に努力を要して育み、維持し、鍛える必要がありますが、失われやすいものです。
苦しみが絶えないのは、苦しみの原因である無明(むみょう)、我執(がしゅう)、貪欲(どんよく)が絶えず存在するからです。
著者:
Janna
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