ひとたび徳を求める道を歩み始めたなら、途中で立ち止まってはいけません。
私たちは究極の清らかさ、究極の聖性へ向かって自らを修養していかなければなりません。その究極の目標に到達するためには、さまざまな障害を乗り越える必要があります。 功績を自分のものとして誇ることも、その障害の一つです。それは自己称賛と高慢さをもたらすだけです。 だからこそ、私たちは自分の功績を手放す practice をしなければなりません。それらを宇宙に捧げ、ただ、風の吹く午後に舞い飛んでいく小さな一粒の塵になりたいと願うのです。

すべての功績を手放す
心の善良な人は、いつも人生において善い行いをしたいと願っています。善い行いをすることは、徳のある人にとって幸福の源となります。誰かのために役立つことを何もできなかった日は、心の中に満たされない思いや空虚さを感じるものです。
ある父親が、仕事を終えて疲れた顔で帰宅し、ソファに横になりました。娘が尋ねました。
「パパ! 毎日、仕事から帰ってくると疲れているよね。でも、嬉しそうな日もあれば、元気がなさそうな日もあるよ。どうしてなの、パパ?」
父親は答えました。
「パパ自身は気づいていなかったよ。たぶん、誰かの問題を解決する手助けができた日は、それが心を嬉しくさせるんだろうね。でも、別の日には問題を解決できず、行き詰まってしまうことがある。そんな日は、心もすごく疲れてしまうんだ。」
善い行いをすれば、私たちは自然に幸福を感じます。善い行いをすればするほど、人は身体的にも精神的にも強くなっていきます。
しかし、私たちが身も心も善い行いに捧げようとするほど、その行いは心の中に深く刻み込まれていきます。そのような「刻印」は、やがて誇りや自己称賛の感情も生み出します。この感情が行き過ぎると、私たちは自分が行った善行の功績を主張し、自分の徳を誇示するようになり、その結果、周囲の人を不快にさせてしまいます。
善い行いをすれば、私たちは福を得ます。しかし、傲慢な気持ちが強くなればなるほど、その福は少なくなっていきます。そして、福が減少してマイナスに転じてしまえば、どれほど多くの善行を積んでいても、人生は苦しいままになってしまいます。
自分の努力を忘れることは簡単ではありません。善い行いには、労力、時間、精神力、そしてお金が必要だからです。そのため、それらを完全に手放すことは容易ではありません。それでも、私たちは何としてでも手放さなければなりません。
道徳は、人生においてできる限り多くの善い行いをすることを私たちに求めます。しかし、高いレベルの道徳は、自分が積んだ功績を忘れる能力までも求めます。この二つの要求は、人間の心理の中に極めて大きな葛藤を生み出します。それでも、私たちはその葛藤を乗り越える決意をしなければなりません。
善い行いをすることは、上へ向かう一歩です。しかし、それをいつまでも覚えていることは、後ろへ下がる一歩です。人間はこのように、上へ進んでは後ろへ戻ることを繰り返してしまいます。それが、絶対的な聖性に到達することを妨げているのです。
ひとたび徳を求める道を歩み始めたなら、途中で立ち止まってはいけません。私たちは究極の清らかさ、究極の聖性へ向かって自らを修養していかなければなりません。その究極の目標に到達するためには、さまざまな障害を乗り越える必要があります。
功績を自分のものとして誇ることも、その障害の一つです。それは自己称賛と高慢さをもたらすだけです。
だからこそ、私たちは自分の功績を手放す practice をしなければなりません。それらを宇宙に捧げ、ただ、風の吹く午後に舞い飛んでいく小さな一粒の塵になりたいと願うのです。
著者:
Janna
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