もし自分自身に打ち勝ちたいのであれば、
道徳を理解することは単なる始まりにすぎない。大切なのは、それを実践する強い意志、忍耐力、そして最大の秘訣は自らの「福徳」である。福徳の力によってこそ、私たちは多くの障害を乗り越え、多くの罪を避け、清らかで道徳的な人生を送ることができる。決して、自分は才能があり強いから、どんな誘惑にも打ち勝てるなどと思ってはならない。

人間は本能によって生きている。つまり、過去のカルマに従って生きているのである。
私たちは生まれてから成長するまでの間に、家族関係、友人関係、同僚関係など、多くの人間関係を持つ。友人関係は家族関係ほど強い結びつきではないが、それでも私たちは家で両親と過ごすより、友人と一緒にいることを好むことが多い。時には両親の助言には従わなくても、友人の言葉には耳を傾けることがある。友人と話したり遊んだりすることは楽しい。それが自然な本能である。
本能のままに生きることは、人を快適で幸福な気持ちにさせる。しかし、その結果はしばしば空虚であり、あるいは予測できないものである。だからこそ、私たちはその誘惑に打ち勝ち、理性と自覚をもって生きなければならない。しかし、それは時に疲れや苛立ち、苦しさを伴う。
もし楽しさや誘惑を選ぶなら、それは坂道を下るように自転車に乗ることに似ている。努力しなくても自転車はどんどん速く進み、そのスリルが私たちを楽しい気分にさせる。反対に、坂道を上るには多くの力を必要とし、簡単に疲れてしまう。しかし、頂上にたどり着いた時の感覚は素晴らしく、そこから見える景色は壮観である。
宗教的な人生を送っているかどうかに関係なく、私たちは皆、どちらかの生き方を選ばなければならない。つまり、結果を気にせず快楽を追い求める人生を送るのか、それとも良い結果を得るために自覚をもって生きるのか、ということである。これは一生を通して、さらには幾つもの来世にわたって続く絶え間ない闘いである。
自らの本能に打ち勝ち、清らかな人生を生きることのできる者は聖者となる。本能に身を委ねる者は、動物界に生まれ変わるか、人間界に生まれても貧しく不幸な人生を送ることになる。
もし自分自身に打ち勝ちたいのであれば、道徳を理解することは単なる始まりにすぎない。大切なのは、それを実践する強い意志、忍耐力、そして最大の秘訣は自らの「福徳」である。福徳の力によってこそ、私たちは多くの障害を乗り越え、多くの罪を避け、清らかで道徳的な人生を送ることができる。決して、自分は才能があり強いから、どんな誘惑にも打ち勝てるなどと思ってはならない。
私たちは新聞記事で、ある女性が子どもたちにこう教えているのを読んだことがある。
「自分の心に従いなさい。そうすれば間違いは少なくなる。」
しかし、「心に従う」とは、感情や本能のままに行動するという意味である。自分のしたいことを好きなようにするのである。多くの人は、これが現代的で人気のある生き方だと思っている。しかし、そのような生き方が人を深い奈落へ導くことを、彼らは知らない。
自分の欲望や感情に打ち勝ち、智慧をもって生きることのできる者だけが、本当に道徳的な人生を送ることができるのである。
Janna
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